歴史・文化(中央地区2)
黒田清輝誕生地
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所在地 東千石町 旧日銀前 天文館と高見馬場間の電車通りにそった商工会議所ビル前に、黒田清輝誕生地の碑があります。 黒田清輝は、一八六六(慶応二)年に生まれました。五歳の時、父の兄である清綱の養子となりました。十八歳の時に清綱のすすめで政治家になる決心をし、法律を学ぶためフランスに留学しました。しかし、生まれつき絵をかくことが好きであった清輝は、すっかり本場の洋画のとりこになってしまいました。清綱は反対しましたが、それを押し切り、ラファエル・コランのもとで洋画を学んで帰国しました。 ヨーロッパ滞在中に制作し、帰国後発表した「読書」「朝妝」などは、外光派の明るい感じのするもので、日本の画壇に大きな影響を与えました。 一八九六(明治二十九)年、黒田清輝は新しく白馬会という美術団体をつくりました。同じ年に東京美術学校が新設されると、洋画科の教授となり、学生の指導にあたりました。明治三十年代のはじめには、夫人をモデルにした「湖畔」や「昔語り」など黒田の代表作といわれる作品を次々と発表しました。 その後、文部省美術展覧会の開設に力をつくしたり、国民美術協会初代会頭や帝国美術院長などをつとめたりして、わが国の明治・大正の洋画界の巨匠といわれました。 戦後の昭和二十九年に鹿児島市立美術館が開かれると、黒田清輝の美術を永く保存するために、黒田記念室が設けられました。この中の「アトリエ」「桜島噴火」は、昭和四十九年に市の文化財に指定されました。 日本の洋画界は、今も黒田清輝の伝統を受けつぎ、今は故人となった海老原喜之助、有島生馬、東郷青児、そして現在も活躍中の吉井淳二氏などの鹿児島県出身者が、洋画のともしびをもやしつづけています。 |
周辺地図
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(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)
東郷重位拝領屋敷跡
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所在地 東千石町二 東郷宅 天文館と高見馬場の中間の二官橋通りを城山に向かって歩いていくと、東郷示現流の祖と言われる東郷重位拝領屋敷跡があります。示現流は、東郷重位が京都で修業のあと、薩摩に伝えたものです。そして一六〇四(慶長九)年に、島津家第十八代家久の面前で、新しい剣法をひろうし、その業は見ている人々を驚かせました。そのとき、家久は、東郷重位に薩摩の剣法の指南役をまかせ、家禄一千石を与えました。それから後、示 現流は薩摩藩独特の兵法として、武士の養成に重要な役割を果たすことになったのです。また、重位のすぐれた弟子であった薬丸兼陳は、重位に教わっているうちに、新たに薬丸自顕流を起こし、幕末に数多くの剣士を育てています。 現在、東郷家に伝わっている示現流の古文書は、県の文化財(書跡)に指定され、示現流兵法所には各種の資料が展示してあります。 |
周辺地図
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(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)
ザビエル滞麑記念碑
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所在地 東千石町 ザビエル公園 フランシスコ=ザビエルは、スペインのザビエル城主の子として生まれ、十九歳の時、学問にはげむためにパリ大学に留学しました。そこでザビエルは、宗教家を志す、戦争で足に重傷を負ったロヨラに出合い、ロヨラの熱心なすすめで、キリストに仕えることを誓いました。 ローマ法王によって、アジアの法王代理に任命されたザビエルは、三十五歳の誕生日に、数冊の本と防寒用の布きれを持って、リスボン港を出発し、インド、マラッカに渡り、力のかぎり布教を行いました。ザビエルは、子供たちに教えを広めることに力を入れ、前もって、その土地の様子や言葉を勉強し、聖書の言葉をその土地の言葉に訳し、歌にして教えたといわれます。 ザビエルはマラッカで鹿児島生まれのヤジロウに合い、日本人の考え方や様子にふれると、日本にキリスト教を布教することこそ自分に与えられた仕事だと考え、一五四九(天文十八)年八月、鹿児島に上陸しました。今の稲荷川が国道十号線と交わるあたりで、当時は港になっていました。 これが日本最初のキリスト教の伝来です。ザビエルは、島津家十五代貴久を伊集院の一宇治城にたずね、布教の許可をもらいました。福昌寺などで布教をはじめると、一時は信者が六百人にもなりました。 しかし、ポルトガルとの交易が盛んになることを期待した貴久の意に反して、その後、ポルトガル船は鹿児島には入港しませんでした。失望した貴久の態度が冷たくなり、一年余りの後、ザビエルは鹿児島を去り、平戸(長崎県)に移りました。 一九一一(明治四十四)年、ザビエル渡来を記念して、県内で最初の石造りの教会が建てられました。しかし、昭和二十年の戦災で焼けてしまい、焼け残った旧教会の石壁を利用して、記念碑がたてられています。 また、祗園之洲町の祗園之洲公園には、ザビエルの上陸記念碑があります。 |
周辺地図
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(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)
平田靱負屋敷跡
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所在地 平之町 平田公園 国道三号線の新上橋バス停付近から上之平通りにはいってすぐ右手に、平田公園があって平田靱負の銅像がたっています。この公園の一角に平田家の屋敷がありました。 靱負は薩摩藩の家老で、一七〇四(宝永元)年に生まれました。宝暦年間、島津家二十四代藩主重年が、幕府から木曽川の治水工事を命ぜられた時、総奉行として大工事を完成させました。しかし、多くの犠牲者と工事費が大幅にふえたことの責任をとって、自刃しました。 この銅像は昭和二十九年五月、宝暦治水二百年を記念してたてられたもので、安藤士が制作しました。藩政時代、この付近は上級武士の屋敷が並び、隣には天保の財政改革を行った調所広郷屋敷がありました。 平田屋敷跡は、昭和二十九年に史跡として県の文化財に指定されました。 |
周辺地図
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(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)
調所笑左衛門広郷邸跡
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所在地 平之町 平田公園北側 平田公園隣りに、天保年間、ばく大な借金に苦しめられていた薩摩藩の財政の立直しを、見事にやりとげた調所笑左衛門広郷の屋敷跡があります。 七十七万石の外様大名であった薩摩藩も、文化・文政の頃はばく大な借金をかかえ、その利子だけで、藩が年間に使う費用と同じくらいでした。特産物や琉球貿易による収入はありましたが、財政は豊かではありませんでした。全国的には十人に一人が武士という時代、薩摩藩では三人に一人が武士というぐらいにたくさんの武士がいました。 一方では、農民は人間あつかいされず、収穫した八〇%を年貢としておさめさせられました。 それでも借金はふえつづけ、江戸・大阪・京都の商人から五百万両も借り、返すあてもなければ、これ以上、貸してくれる人もいない状態で、参勤交代の旅費もないほど、それは苦しいものでした。 この財政のゆきづまりを打開しようとして登場したのが調所です。 調所は城下の下級武士の二男として生まれました。十二歳で調所家の養子となり、生活が貧しかったので、髪をそって茶坊主になりました。茶坊主は年四石の禄がもらえたからです。やがて調所は町奉行、側用人と出世していきました。 一八二七(文政十)年、島津家二十五代藩主重豪は、孫にあたる二十七代藩主斉興と相談して、調所を薩摩藩の財政改革の貴任者に命じました。調所が五十一歳のときで、西郷隆盛の生まれた年でした。調所は辞退しましたが聞き入れられず、翌年、とうとう引き受けることになり大阪に行きました。大阪では調所に金を貸してくれる人はいませんでしたが、調所の熱意にうたれた出雲屋、平野屋などの協力が得られて改革のための資金が借りられました。また、借金については、上方商人から二百五十年でかえすという約束を取りつけ、江戸でも同じような方法をとり、商人たちは調所の強引なやり方にただ泣き寝入りするばかりでした。 次に調所は、砂糖を専売制にしました。日本でただ一つの砂糖の産地であった薩摩藩は、奄美大島、徳之島、喜界島の三島に強制的に砂糖きびだけを栽培させ、できた砂糖は、黒砂糖一斤(六百グラム)を米三合(四百二十グラム)の割合で交換させ、これを大阪に送って売ると六倍の値投で売れて、ばく大な利益を上げました。 島民にはほんのわずかの砂糖のたくわえも許さず、指でなめたり、こっそり売るものなら、ただちにそれはひどい処罰を受けました。島民の食料や日用品は、藩が大阪から仕入れて砂糖と交換させました。 砂糖につづいて、米、なたね、はぜ、ごま、硫黄なども藩の専売にして、巨額の利益を上げました。また、琉球を通して密貿易を行って、ばく大な利益を上げました。 このような調所の財政改革により、薩摩藩の財政は立直り、鶴丸城の修理や五石橋をはじめとする建築、土木の事業を行い、お金や非常用の米をたくわえるまでになりました。 調所の命をかけた改革は、島民や農民の血と汗によって成功し、そして、次の二十八代藩主斉彬によって生かされ、明治維新のエネルギーとなったのです。 |
周辺地図
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(出典:「鹿児島市の史跡めぐりガイドブック-四訂版-」鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)
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