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更新日:2016年1月1日

市民とともに・平成28年1月号(新春市長対談)

(この対談は、広報紙「かごしま市民のひろば」第584号(平成28年1月号)に掲載されたものです)

名古屋市の名城大学で、鹿児島県出身者として初めてノーベル賞を受賞された赤﨑勇さん(名城大学終身教授・特別栄誉教授)と森博幸鹿児島市長の対談を行いました。幼少期から旧制高校までの多感な時期を本市で過ごされた赤﨑さん。社会に出られてからは、消費電力が少なく、長寿命な光であるLED(発光ダイオード)の研究に人生をささげることになります。青色のLEDは「20世紀中は実現不可能」ともいわれた難題でした。多くの研究者が断念する中、赤﨑さんは青色の開発を諦めることなく長年研究され、60歳のとき世界初の窒化ガリウムpn接合型青色LEDを誕生させました。青色の誕生で、すでに開発されていた赤色・緑色と光の三原色がそろい、照明で一般に使われる白色などあらゆる色をLEDで表現できるようになりました。現在は照明のほか、信号機、イルミネーション、スマートフォンのディスプレイなどでも使われ、私たちの生活になくてはならないものとなっています。

新春市長対談~赤﨑勇さん(名城大学終身教授・特別栄誉教授)

市長 本日は、新春対談の機会をいただき、ありがとうございます。
赤﨑さん こちらこそ、ありがとうございます。

鹿児島大空襲での壮絶な体験

市長 赤﨑先生の青色LEDにちなみ、本日は青のネクタイをつけてまいりました(笑)。さて、先生は、南九州市知覧町のお生まれです。私の父母も知覧の出身です。母の旧姓は赤﨑です。先生がノーベル賞を受賞されたとき、親戚かと思いましたが、残念ながら血縁関係はなかったようです(笑)。先生は、ノーベル賞や京都賞など多数受賞され、地元鹿児島の英雄です。何歳まで知覧で過ごされたのですか。
赤﨑さん 知覧にいたのは2歳くらいまでのようで、ほとんど記憶にありません。その後、鹿児島市に移り住み、戦争で自宅が全焼してしまったため、終戦後、衣服など必要なものを知覧の親戚をまわりもらったことを覚えています。
市長 赤﨑先生は、大龍小の校訓「敬天愛人」と二中(現・甲南高校)の校訓「剛・明・直」が鹿児島で学んだ精神的支柱となり、戦時中も先輩たちと交流を深める中で、心身を鍛錬できたと著書で回想されています。その二中在学中の1945(昭和20)年6月に鹿児島大空襲があったのですね。
赤﨑さん はい、空襲の前日まで学徒動員で佐世保にいました。ちょうど任務があり鹿児島市に帰ったのですが、空襲のときは城山の上り口にある親友宅にいました。焼夷弾の火がすごくて、親友の弟と必死に消しました。何時間か頑張ってなんとか消しましたが、市街地の方からガスがどんどん流れてきて、息苦しくなり、倒れこんでしまいました。翌早朝、父が迎えにきて「勇!」という声で、我に返りました。そのまま倒れていれば、ガス中毒になっていたかもしれません。付近で焼け残ったのは親友宅だけでした。
市長 8回にわたる空襲で鹿児島市の9割以上を焼失しました。
赤﨑さん 自宅も全焼していました。ですから私の幼いときの写真は、肌身離さず持っていた2枚しかありません。
市長 そして終戦を迎えられたのですね。
赤﨑さん 二中4年の8月に終戦となりました。口には出しませんでしたが、戦況は厳しいと感じており、正直ほっとしました。焼け跡で2回ほどグラマン戦闘機の機銃掃射を受けました。多くの年配の方が同じような体験をされています。また私より年長の方が多数、戦病死されています。どんな事情があっても、戦争は絶対にしてはいけません。私の心からの願いです。

光への憧れ

市長 戦争を知らない世代には想像できないほど壮絶な体験をされたのですね。
赤﨑さん 戦災後、鹿児島市の川上に疎開しており、当時伊敷に移転していた二中には片道2時間半ほど歩いて通っていました。家に帰っても教科書はなく、古い辞書を借り、魚油を使った小さなランプの灯りで見ていました。とにかく光が欲しかったのです。森市長はご存じないかもしれませんね。
市長 はい。戦後(昭和24年)生まれですので。
赤﨑さん 戦時中は、灯りが絶対に外に漏れないように室内を暗くしていました。私だけでなく、同世代の人は灯りに対して特別な思いがあったと思います。
市長 学生時代の多感な時期に体験されたことがその後の人生に大きな影響を与えたと思います。戦時中の体験が光の発明につながったのかもしれませんね。

赤﨑さん 潜在的に明るい光への憧れを持っていたのかもしれません。

我ひとり荒野を行く

市長 戦後、七高(現・鹿児島大学)から京都大学に進まれますが、ご自分の進むべき道もこの頃決められたのですか。
赤﨑さん その頃はまだ決めていません。七高の寮で同室の京都の中学出身の友達の影響もあり、大学は京都に行きたいと思うようになりました。
市長 京大で今の研究をされたのですか。
赤﨑さん 京大の頃は信州の山へ行ったり結構遊んでいました(笑)。卒業後、神戸工業(現・富士通(株))という会社に入りました。大学みたいな名前で、神戸工業大学というあだ名がついていましたが、野武士の集団のようなところがありました。まもなく、技術革新によりテレビの放送が始まりました。
市長 当時のテレビは私も小さい頃から見ていました。
赤﨑さん 冷光(ルミネッセンス)にかかわりはじめたのはこの頃です。テレビを映し出す蛍光体から出る光にすごく惹かれ、生業にすることになりました。
市長 光の可能性に夢中になられたのですね。
赤﨑さん はい、これが原点で、いつのまにか一生かかわることになりました。そしていろいろな結晶を扱って今のような研究をすることになりました。
市長 最終的には世界最高の栄誉といわれるノーベル賞を受賞されるなど素晴らしい成果をあげられました。その道のりではご苦労もあったと思います。
赤﨑さん 苦労といいますか、やりたいことをやってきただけです。ブラウン管用蛍光体は小さい粉末結晶です。単結晶の膜を作ればうんと明るいものができると考えていました。1959(昭和34)年から名古屋大学で取り組んだゲルマニウムの「単結晶薄膜」の研究が新設の(株)松下電器産業東京研究所長の目にとまり、誘われて転籍し、そこで、かねて温めていた光る半導体(LEDなど)の研究を開始。赤色・緑色LEDにつづき"青色”と考えたとき、青色LEDが未到であることが分かり、「これこそ自分のやるべき仕事」と決心しました。
市長 青色のLEDはできないというのが当時の常識で、多くの研究者が諦めたと伺っています。そのような状況でも信念をもって地道に取り組まれたのですね。
赤﨑さん 誰がやってもできないことをやるのは無謀と言われていました。「我ひとり荒野を行く」という心境です。会社の上層部の目にも”海のものとも山のものともつかない〞研究と映っていたようで、会社に内緒で国家プロジェクトに応募しました。その後も研究を続け、1981(昭和56)年には再び名古屋大学に戻り、1989(平成元)年に青色LEDを誕生させることができました。

未来ある若者へ

市長 赤﨑先生が実現された青色と、それまでの赤色や緑色により、白色の照明やフルカラーのディスプレイなどの実用につながり、世界の人が恩恵を受けています。本市でも、みなと大通り公園などをLEDのイルミネーションで鮮やかに彩っていますが、さらに100万球のLEDが光輝く「天文館ミリオネーション2016」を初めて開催します(今月8日メイン会場の天文館公園で点灯式)。このように、先生の生み出されたLEDも活用して交流人口を増やし、まちのにぎわいを創出し、滞在型観光の推進や地域活性化を図りたいと考えています。最後に若者へのメッセージをお願いします。
赤﨑さん いつも口癖のように言っているのは”はやり〞にとらわれないで、本当に自分がやりたいことをしてくださいということです。それを見つけるのは簡単ではありませんが、本当に好きであれば、できなくても続けられると思います。また、「失敗」はこのやり方では駄目だという「教訓」だと思っています。英語のことわざに「経験は最高の師」(Experience is the best teacher)とあるように、失敗してもそれ自体が貴重な経験だと思います。
市長 本日はお忙しい中、素晴らしいお話をいただき、本当にありがとうございました。

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