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更新日:2020年3月23日

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2.戦時中の市民生活の状況~

本市における戦災の状況~2.戦時中の市民生活の状況~

「鹿児島市戦災復興誌」より抜粋

市民は満足な食事もできず、自衛的に自給自足体制をとり始めたが、食べ盛りの子供たちは慢性的な栄養失調状態であった。

空襲が激しくなるにつれ市内の学童もそれぞれ親戚、知人を頼って田舎へ疎開していった。

2-1.食糧難

米の配給制度は昭和16(1941)年に始まり、また間もなく農家に生産から供出まで割り当てる供出制度が実施され、すべての物資が統制経済のワクの中に組み入れられた。

米は最初大人も子供も1人当たり3合ずつだったが、後には年齢別に配給量を制限、さらには麦、アワ、イモなどの雑穀類も一定の換算率で混合されるようになった。

18(1943)年に入ったころから市民は三度の食事さえ満足にできず、配給だけでは生きてはいけない状態となり、それぞれ自衛的に自給自足体制をとり始め、一坪農園、家庭農園が現れ、空き地という空き地は手当たり次第畑になっていった。

それでも食べ盛りの子供たちは慢性的な栄養失調状態になっていた。

海岸線では自家塩の製造が始まり、農村地域との物々交換が行われるなど、市民は食糧を求めて、右往左往する「買い出し」の日々が多く、戦争遂行どころではなくなってきていた。

2-2.強制疎開

昭和19(1944)年11月15日、鹿児島市堀江町の造船所跡に鹿児島市疎開事務所が開設され、市街地指定区域の建物疎開を行った。

建物疎開は戦火に見舞われたとき、延焼を防ぐ、いわゆる防火帯をつくるために行われた。

防火帯の線引きは市庁を中心に行われ、鹿児島港から生産、汐見、築、住吉各町を貫く線、また照国神社から天文館、滑川沿いに海岸から冷水町へ、西駅前から、中洲通りへ、電車通りに沿った高見馬場-新屋敷、それに千石馬場-新照院などが計画された主な疎開ベルト地帯であった。

建物疎開の該当家屋は少なくとも400戸に達したといわれるが、強制的であったので、個人的理由はとりあげられず、情け容赦なく行われた。

しかし一般的には、すでに地方に疎開して空家同然のところも多く、解体作業に抵抗はなかった。

むしろ家の所有者を探すのに苦労し、係員が捜し当てて、補償金を渡そうとすると「どうせ空襲で焼ける家だ補償金などいらぬ」と辞退する人もいた。

補償費の相場は1坪(3.3平方メートル)当たり3円であったという。

2-3.防空訓練

町内会・隣保班という末端組織ができてから、その組織を「民防空」の最前線とするため、防空訓練が連日のように行われた。

家の前に防火水槽、火消し棒(竹ザオに荒ナワをしばりつけたもの)、バケツが置かれ、サイレンの音を合図に主婦たちが飛び出し、リレー方式などで火元(想定)に水をかけ、火消し棒でたたき消す訓練である。活動しやすいように主婦らはモンペに防空ずきん、地下足袋姿であった。

爆弾落下時に地面にはいつくばり、なるべく低い姿勢をとる訓練も行われた。

親指で耳を、4本の指で両眼を覆うと同時に伏せるのである。

空襲警報がひんぱんになるにつれ、灯火管制も厳しくなり、各家庭の電灯は黒布で覆われ、細い小さなあかりの元で夜を過ごす日々だった。

しかしこれらの訓練、管制は、昭和20(1945)年に入ってからの鹿児島市に対する米軍機の本格的空襲の前にはほとんど役立たずであった。

2-4.猛獣処分

昭和18(1943)年暮れ、梶原重盛鴨池動物園長に久永鹿児島市長を通じ、軍からの命令書が届いた。

空襲における動物園被害を想定し、猛獣を全部処分するようにというのである。

書類には処分すべき動物名が全部書かれていた。

ライオン、トラ、ヒョウ、クマ、ワニ、オオカミ、ニシキヘビなど19匹。

梶原園長らはなんとか殺さないで救う方法はないかと奔走したが結局聞き入れられず、殺すことになる。

東京上野動物園がすでに実行していたので、その例にならい毒殺することにし、鹿児島高等農林学校獣医科に頼み麻酔剤の大量注射でまずライオンを殺す。

しかし苦しみ方がひどいので、次には電気ショックの方法をとるが、ワニやクマは電気に強く、なかなか死なずに手を焼いたという。

2-5.学徒動員・学童疎開

戦争への総動員体制は子供たちの上にも容赦なく降りかかった。

県立一中、二中、市立中学、鹿児島中学の4、5年生が愛知県の飛行機工場へ動員され、少ない食糧におなかをすかしながら組み立て作業に携わったほか、七高生が長崎へ、また女学校の生徒たちも県内外に動員されて、戦場へ出た若い工員たちの留守を補った。

動員先の空襲で負傷した生徒もあり、また動員から帰家してみると鹿児島市は焼け野原。自分の家族は焼死していたという悲惨な事例も数多かった。

一方、沖縄に続き、本土上陸が予想された昭和20(1945)年初め、南西諸島方面から本土鹿児島県の農村地帯へ学童が集団で疎開した。

また空襲が激しくなるにつれ鹿児島市内の学童もそれぞれ親戚、知人を頼って田舎へ疎開した。

勉強どころではなかった。食べ盛りなのに食糧は配給量も維持できなかった。

周囲の農家の善意も学童の数と長期間滞在には勝てない状況で、子供たちにはつらい疎開生活であった。

「本市における戦災の状況~3.空襲等の状況~」

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