「町田久成(まちだひさなり)」を知っていますか?
明治維新で西洋化が進む日本において、日本古来の文化を守った英雄の一人です。
町田久成がいなければ、多くの文化財が破壊され、貴重な資料が消失していたかもしれません。
町田久成とは
石谷を治めていた町田家の長男として生まれ、慶応元(1865)年に薩摩藩英国留学生を率いて英国へ渡りました。帰国後、廃仏毀釈の嵐で文化財破壊が広がる風潮を憂い、文化財保護の重要性と博物館の建設を建議し、東京国立博物館の初代館長に就任しました。
鹿児島中央駅東口の銅像「若き薩摩の群像」
薩摩藩英国留学生である19体の銅像からなり、その一番上に飾られている2人のうちの1人が、「町田久成」です。

町田久成の経歴
文化財保護に尽力した生涯
- 1865年:薩摩藩英国留学生を率いて渡英。西洋文明や技術に触れ、深い感銘を受ける。
- 1867年:帰国。国内では廃仏毀釈の風潮により寺院や仏像が破壊され、さらに日本古来の文化財が安価で海外へ流出していた。その状況に心を痛めた久成は、私財を投じて文化財を買い求めるとともに、修復技術者の養成機関を設立するなど、文化財保護に尽力した。
- 1870年:大学大丞に就任。博物館建設に向けて精力的に活動する。
- 1871年:文部大丞に就任。「大学南校物産会」を開催し、天皇・皇后両陛下のご観覧を得たことが、博物館建設への大きな後押しとなる。
- 1872年:文部省博物館の名のもと、湯島聖堂において博覧会(湯島聖堂博覧会)を開催。同年、東海・近畿地方の文化財調査(壬申検査)にも従事。
- 1873年:「博物館設置の建白書」を提出し、博物館の必要性を強く訴える。
- 1875年:内務大書記官に昇任。同時に初代博物局長(博物館長)に任命される。
- 1882年:博物館が上野へ移転。自身が収集した文化財をすべて寄贈し、同年、突然辞職して仏門に入る。
- 1897年:古社寺保存法が制定。その成立を見届けるかのように、同年9月15日、60歳で生涯を閉じる。
久成の死後
久成の死後、東京国立博物館の構内には、高さ約4メートルの大顕彰碑が建立されました。碑文には「博物館は君が提議し創設する所なり」との撰文が刻まれ、あわせて久成の心境をしのぶ漢詩も彫られています。
また、2016年11月14日には、東京国立博物館の中庭に久成の胸像が設置され、除幕されました。台座正面に刻まれた碑銘「初代町田久成館長像」は、安倍晋三元内閣総理大臣が自ら筆を執って書いたものです。
石谷夢プロジェクト
2023年、石谷校区まちづくり協議会が、「石谷夢プロジェクト」を立ち上げ、町田久成を起爆剤として地域の活性化を図る取組を進めています。
松元支所ではこの取組を支援するとともに、地域の魅力創出を図り、地域内外への情報発信を行っています。
石谷校区まちづくり協議会が運営するサイトは、以下のとおりです。
石谷夢プロジェクトnote(外部サイトへリンク)
石谷校区まちづくり協議会インスタグラム(外部サイトへリンク)
オリジナルキャラクター「まっちー君」
石谷校区まちづくり協議会は、鹿児島県立松陽高等学校美術科の生徒さんと協働し、町田久成のオリジナルキャラクターを制作しました。キャラクター名の「まっちー君」は、石谷小学校5年生の発案によるものです。

町田久成講演会
過去に行った町田久成講演会は以下のとおりです。
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください