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更新日:2020年3月23日
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本市における戦災の状況~3.空襲等の状況~
「鹿児島市戦災復興誌」より抜粋
鹿児島市は昭和20(1945)年3月18日から8月6日まで前後8回にわたる空襲を受け、文字どおり壊滅的な打撃を受け、市街地の約93%を焼失した。
この間、鹿児島市への直接攻撃を行わず鹿児島上空を北上、南下する米軍機も当然多かった。
とくに沖縄陥落以後は毎日定期便のようにB29の編隊が鹿児島上空を通過した。米軍機を見ぬ日はない毎日であった。
(撮影平岡正三郎氏)
昭和20(1945)年3月18日午前5時42分、鹿児島市役所屋上のサイレンが空襲警報を報じた。
市防空課に入った情報第1号は「敵の機動部隊は大隅半島の南方300キロの洋上に出現、南九州空襲の公算大なり」というものだった。
午前7時50分頃、米グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町の海軍航空隊を急降下爆撃した。
翌19日付、鹿児島日報は軍当局の発表を次のように報じている。
「敵機動部隊は九州南方海面に出現、その艦上機は18日6時過ぎより主として九州南部、及び東部地区に波状的に来襲しつつあり。
敵は主力をもって九州南部及び東部地区のわが飛行場を狙って波状攻撃。一部をもって四国、和歌山に来襲、午前中の敵機は延べ1,400機である」
昭和20(1945)年4月8日午前10時30分、突如米軍機数十機が鹿児島市上空に現れ、市街地を空襲した。
この日は日曜日。空襲警報の発令もなく、防空訓練もないまま、いつになく静かな日であった。
田上町方面で投下爆弾の爆発が起こってから空襲警報のサイレンが鳴った。
続いて、騎射場、平之町、加治屋町、東千石町、新照院町などから、一斉に黒煙が立ち、火の手も上がった。
抜き打ち攻撃の米軍機がこの日投下した爆弾は大型250キロ爆弾約60個であった。(「鹿児島市史」)
この空襲による被害は投下爆弾の直撃によるもののほか、爆風、飛散した破片によるもの、家屋倒壊及び倒壊に伴う火災、防空壕の崩壊による生き埋め、などであり、死傷者は無残な姿であった。
市営造物の被害は水道3か所。学校は田上、八幡、山下校と市立高女。電車は柿本寺-高見橋、騎射場-鴨池、二軒茶屋-脇田間で被害を受けた。
翌4月9日付、鹿児島日報は次のように発表を報じている。
「九州南方洋上の一部敵機動部隊から発進せる艦上機は、8日午前10時半より南九州地区に、また別の30数機は11時半頃より西九州男女群島付近にそれぞれ分散的に侵入、わが各基地を襲撃の後、12時過ぎ南方洋上に脱出したが、わが方の損害はきわめて軽微である。
その敵の企図は明らかに沖縄侵攻作戦の一環として、わが特攻隊出撃の阻止にあるものの如く、今後の動向は厳戒を要する。」
昭和20(1945)年4月21日、午前5時44分、鹿児島市内に警戒警報。
引き続き午前6時9分に空襲警報が発令され、市民は防空壕に避難したが、米軍機は一向に姿を見せず、2時間近くたった午前8時ごろになって吉野方面から市中心部へ向かう米軍機十数機が現れた。
やがて、機体から黒いものが点々と落ち始めた。落とされた爆弾はおよそ200個。
長田町、山下町、東千石町、加治屋町、山之口町、樋之口町、新屋敷町などに爆弾の直撃、爆風、破片等による被害が出た。
吹き飛ばされた家屋の被害が主であったが「被害は割に少なく不発弾が多いようだ」という報告が市庁の防空本部にもたらされた。
城山トンネル付近に落ちていた不発弾を警防団員らが取り巻き、抱いたり、たたいたりしたという例もあった。
ところがこれら不発弾と思われていたのが時限爆弾であった。
およそ1時間くらいたったころから、あちこちで爆発を始めた。時限爆弾とわかってから大騒ぎとなり、市は直ちに落下点の判明している所に、立ち入り禁止のナワを張ったり、同地点から150メートル以内の居住者などは立ち退きさせた。
この時限爆弾は以来、5月末ごろまで昼となく夜となく爆発を続けた。
直接被害はさほど大きくなかったが、神経戦としての効果を発揮し、市民は恐怖におののいた。
不発弾も相当数に上り、4月28日には熊本第6師団から歩兵1個中隊と工兵隊1分隊が鹿児島入りし、時限爆弾とこの不発弾処理にあたった。市の警防団もこれを援助した。
22日付、鹿児島日報は、軍当局発表を次のように報じている。
「21日午前、マリアナ系B29約180機をもって九州地区に侵入、午前6時頃九州南方海上で隊形を整えた敵は2群に分かれ、その主力110機をもって都井岬より宮崎、鹿児島周辺地区に、また別1群約70機は豊後水道を経て大分太刀洗に侵入、約4時間にわたって、わが飛行場など地上施設に対し8,000~9,000メートルの高々度からも盲撃を加えたが、わが方航空関係にはほとんど被害なく、鹿児島、大分の市街地に一部火災を発生した。
また時限爆弾を多数混用している点が注目される。
-マリアナ基地のB29-10機編隊を主軸とし、それに小型機1機が21日午前7時ごろ、鹿児島と宮崎に来襲、特に鹿児島市に侵入した大型機は編隊でルメー式盲撃を行った。」
昭和20(1945)年5月12日午後8時ごろ、沖縄基地から発進した米軍機・グラマンなど20数機は、鹿児島市に対して初めて夜間の空襲を加えた。
主に湾岸地帯が被害を受けた。
沖縄基地を使用した初めての鹿児島市空襲である。
14日付、鹿児島日報は軍当局の発表を次のとおり報じている。
「12日午後8時ごろから13日午前4時ごろまでに沖縄基地を発進した米軍機グラマンF6F及びマーチン哨戒機PBM3など30数機は、おおむね単機にて志布志湾付近から侵入、鹿児島に20機、宮崎に10数機、長崎県に2機来襲、照明弾を投下し、一部は爆弾、焼夷弾を混用投下した後、南方洋上に脱出した」
昭和20(1945)年6月17日。この日は鹿児島市民にとって、呪われた日となった。
鹿児島市に対する前後8回の空襲のうち、最大にして、最も悲惨であったのは、この6・17空襲である。鹿児島では6月13日頃から雨が降り続いていた。
いわゆる梅雨の最中。その17日午後11時5分、突然深夜をついて爆音が響き始め、ついで、大きな雨音のようなザーッという音が鹿児島市を覆った。
焼夷弾が無数に投下される時の音である。
この時、鹿児島を襲った米軍機は百数十機の大編隊で、しかも今までの爆弾攻撃を変更して、深夜に全市を焼き払う焼夷弾作戦の第一弾だった。
空襲警報は発令されていなかった。
米陸軍航空隊公刊戦史第5巻「太平洋作戦─マッターホーンより長崎まで」によると、地方都市の焼夷攻撃について次のように述べている。
「大都市に対する焼夷弾攻撃は6月15日終了。翌16日にルメイ少将は、17日夜大牟田、浜松、四日市、鹿児島を攻撃することを4司令官に命令した。
離陸した総機数は477機、攻撃したのは456機。7,000~9,000フィートの高度からレーダー爆撃したが、日本軍の抵抗はほとんど無かった。
投下した爆弾は3,058トンという大量なものであった。」
米軍機は一時間以上にわたり、波状的に焼夷弾の投下を繰り返した。
鹿児島市に投下された、この夜の焼夷弾は13万個(推定)(「鹿児島市史」)とみられ、わずかの時間で鹿児島市内は火の海と化した。
市民は阿鼻叫喚、右往左往して逃げまどった。紅蓮の炎は一晩中燃え続けた。
一夜明けると、鹿児島市は一望千里の焼け野原と化し、余じんがくすぶり、焼けこがれた死体が累々と連なる悲惨な姿になっていた。
見渡す限り、ただ瓦礫の街、電線は焼き切れて垂れ、電車線は折れ曲がり、焼けた電車、自動車が哀れな残骸となり、切断された水道からは水が噴き出ていた。
肉親、知人の姿を求めて、焼け跡を掘る人、ぼう然と死体を焼く人、病院、薬を求めてさまよう人々が痛々しかった。
後に、被災者の体験談、体験記から見ると、この夜の空襲による災害には特徴的なことが幾つかある。
午後11時5分という時間で、ほとんどの市民が寝入りばなであり、警報の吹鳴も無かったため、対処に戸惑った。
服装も寝間着や着流しの市民が多かった。長雨で防空壕は水浸しになっていて、腰までつかる状態であった。
4・8空襲は爆弾主体であり、防空壕に避難することが効果的であったため、この夜も防空壕に退避、周囲が火の海になってから、脱出しようとしても、熱風のため扉を開けることが出来ず、そのまま焼死または窒息死した例が多かった。
助かった人々の例では、城山や甲突川に避難したり、疎開跡の大きな広場に逃げこんだ─などがみられた。
焼夷弾にも、M69型といわれる普通焼夷弾のほかにナパーム性油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾、エレクトロン焼夷弾などさまざまな威力を持ったものがあるが、中でも「モロトフのパンかご」といわれた大型焼夷弾は親爆弾に38本、または72本の小型焼夷筒が収められていて、空中で親爆弾が爆発すると中の小型焼夷筒が一面に散りながら落下して火災を起こす仕組みになっていた。
また焼夷弾の中の固形油は、一度屋根や壁にへばりついたら、なかなかとれず、発火しやすい上に高熱を発し、長時間燃え続けるため、それまで、隣組などで訓練してきた“火たたき”やバケツリレーの消火ではほとんど役に立たなかった。
木と紙の日本の都市家屋には火攻めが効果があるとみた米軍の戦略であった。
(南日本新聞「鹿児島空襲」昭和47(1972)年8月8日)
この空襲のあと、西部軍管区司令部は18日午前10時、次のように発表した。
「マリアナ基地の敵B29約100機は6月17日23時頃より18日4時20分頃のまでの間、一部をもって関門地区ならびに鹿児島市付近に、主力をもって大牟田市付近に侵入、関門地区には機雷を投下、鹿児島市、大牟田市付近には主として焼夷弾による攻撃を実施せり。
大牟田市、鹿児島市およびその付近に火災発生せるも、軍官民の敢闘により18日6時頃までにはおおむね鎮火せり。
重要施設の被害軽微なり」
市営造物の被害は市庁内付属建物、交通部、公会堂、中央卸売市場、歴史館、市立病院。
学校関係で鹿児島、山下、松原、草牟田、西田、中洲、荒田、第二、八幡の9国民学校。
中等学校で女子興業、女子商業の2校。青年学校では鹿児島、松原、荒田、紫原、洲崎、西田、交通の7校。
交通機関において電車焼失27両、残35両。自動車焼失37両、残1両。庁員罹災者市長以下178人、ほかに死者2人。
交通部罹災者71人、死者9人。水道においては配水地、配水管には被害はなかったが各戸引き込み線に多大な被害を受けた。
6月27日現在、鹿児島市が調査した6・17空襲後における市民動態調では、空襲直前の世帯数3万4,868世帯、人口14万5,978人に対し、空襲後の世帯数は2万1,958世帯、人口9万3,032人となっている。
うち罹災したまま残留している世帯数は5,921世帯、人口は2万3,311人だった。
昭和20(1945)年7月27日午前11時50分、市は米軍機による第6回目の空襲を受けた。
6・17空襲からちょうど40日目。この空襲は晴れ上がった夏の真昼のことである。
空襲警報発令後間もなく現れた米軍機ロッキードは鹿児島駅を目標に爆弾攻撃をした。
その時間、鹿児島駅は鹿児島本線と日豊線両方から列車が到着した直後であり、通常でも混雑していた同駅は、この時一層、あふれるような人でごった返していた。
そこへ爆弾投下。当時、県警察本部警務課勤務・有馬喜芳氏は「初めての1トン爆弾であった」と記録している。
その強力な爆発力でまたまた多くの市民が殺傷され、駅や周辺の建物にも大きな被害を与えた。
昭和20(1945)年7月31日午前11時30分ごろ、突如ロッキードの編隊、10数機が来襲し、上町一帯を爆撃、清水小、大竜小をはじめ民家多数を焼き、西郷さんの木像などすべて焼失、わずかに春日町と清水町の一部が残った。
昭和20(1945)年8月6日12時30分ごろ米軍機グラマン・カーチスの艦載機が来襲し、爆弾投下、機銃掃射し、上荒田及び西鹿児島駅付近、城西方面一帯、伊敷の18部隊兵舎が焼失した。
この日の空襲が最後の空襲となったが、すでに鹿児島市は廃墟と化していた。
(撮影平岡正三郎氏)
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