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更新日:2023年9月19日
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(期日が過ぎたイベント)
令和5年9月16日(土曜日)に東京国立博物館初代館長『町田久成』のゆかりの地を散策する史跡めぐりイベントを開催します。
ただし、小学4年生以下の方は保護者の方と一緒に参加してください
松元地域のお茶をはじめとする特産物や新たな魅力を発信することをテーマとしたマルシェ「まつもとまるっとマルシェ」を開催します。
令和5年11月23日(木曜日・祝日)
午前10時~午後4時(予定)
あいハウジンググラウンド松元補助グラウンド(松元平野岡運動場補助グラウンド)
鹿児島市(旧松元町)の石谷を領していた町田家(新納家(宮崎県木城町)・樺山家(宮崎県三股町)と共に島津氏三大権門の一つ)の長男として1838年に生まれた方です。
文久2(1862)年8月21日に現在の「神奈川県横浜市鶴見区生麦」付近で薩摩藩主の島津茂久の父で藩政の最高指導者・島津久光の大名行列に遭遇し、あたりかまわず無遠慮に動いた騎馬のイギリス人たちを殺傷(1名死亡・2名重症)した事件です。
生麦事件を受けて、イギリスは薩摩藩に対して犯人の処刑と賠償金25,000ポンドの支払いを要求し、薩摩藩がこれを拒否したため、1863年6月27日イギリス艦隊7隻が鹿児島に来航し始まった戦争です。戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への砲撃射撃は必要以上の攻撃であったとして、イギリス議会や国際世論はイギリス艦隊のキューパー提督を非難しています。イギリスは講和交渉を通じて薩摩藩を高く評価するようになり、薩摩藩側も欧米の文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていきました。
薩英戦争を機に、薩摩藩では海外に通じた人材育成の機運が高まり、1865年2月13日に視察員4名と薩摩藩洋学校開成所(薩英戦争後の藩の近代化政策の一環として、洋式軍制拡充の目的で1864年に創設された藩立の洋学養成機関)を中心に留学生15名が選ばれ、留学渡航の藩命が下されました。
薩摩藩英国留学生である19体からの銅像からなり、その一番上に飾られている2人のうちの1人が、「町田久成」です。
よりも上に飾られています。
町田久成らは、1865年17名の青少年を率いて英国へ留学します。躍進する海外の文明に接し、また大英博物館やパリ万国博覧会を目の当たりにして、手厚く保存された文化財と西欧の高度な文明技術に強い衝撃を受けました。
1867年に帰国しましたが、このとき、日本国内では古い物を破壊し捨て去ることが、文明開化であるという誤った考え方が流行していました。
1868年に布告された神仏分離令が廃仏毀釈の嵐を呼び、文化財の破壊は全国的に広がっていく風潮を憂い、1870年文化財保護と博物館の建設を建議し、この献言により、日本の文化財保護の動きが始まることとなりました。1872年には「文部省博物館」の名のもとで、湯島聖堂を会場とした博覧会を開催し、1882年に東京帝国博物館(現:東京国立博物館)の初代館長となりました。
町田久成がいなければ、多くの文化財が破壊され、貴重な資料が消失していたかもしれません。まさに、明治維新で西洋化が進む日本において、日本古来の文化を守った英雄の一人です。
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