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更新日:2025年7月10日
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松元地域の特産品であるお茶の魅力を発信することをメインテーマとしたマルシェを開催します。今年度は地域農業まつり「フェスタまつもと」との同時開催です。
開催日:令和7年11月23日(日曜日)
開催場所:あいハウジングドーム松元など
鹿児島県卓球連盟職員を講師に迎え、松元地域内の小学校で卓球教室を開催します。
松陽高校美術科生徒を講師に迎え、松元地域内の小学校で絵画教室を開催します。
松元地域の偉人である町田久成の顕彰に取り組む地域グループ「石谷夢プロジェクト」の活動を支援します。「石谷夢プロジェクト」は、令和7年度も講演会を開催予定です。
松陽高校美術科の生徒が制作した油絵20作品による展覧会を開催します。会期中は観覧者による人気作品投票も行います。
会期・会場
令和7年10月11日(土曜日)から10月19日(日曜日)まで・都市農村交流センターお茶の里
令和7年10月21日(火曜日)から10月23日(木曜日)まで・鹿児島市役所・松元支所
令和7年10月25日(土曜日)から10月30日(木曜日)まで・イオンモール鹿児島
令和7年11月4日(火曜日)から11月10日(月曜日)まで・松元中学校
観覧日、時間は会場の開館・営業日、時間に従います。
令和6年11月10日にあいハウジングアリーナ松元をメイン会場に、マルシェを開催しました。
会場では、上柿元勝シェフによるスープ提供、松陽高校吹奏楽部等によるステージイベント、松元地域の店舗等による出店を行いました。
令和7年2月20日に松元小学校で鹿児島県卓球連盟職員による卓球教室を開催しました。
令和6年7月26日に春山小学校で、松陽高校美術科生徒を講師に迎えて絵画教室を開催しました。
令和6年10月5日から10月27日まで、都市農村交流センターお茶の里、イオンモール鹿児島、あいハウジングアリーナ松元で、松陽高校美術科の生徒が制作した油絵20作品による展覧会を開催しました。
令和7年1月18日に松元公民館で、「石谷夢プロジェクト」が主催する講演会が開催されました。志學館大学原口泉教授が「町田四兄弟と小松帯刀」と題し、松元地域の偉人である町田久成についてお話されました。
令和5年11月23日にあいハウジンググラウンド松元補助グラウンドで、マルシェを開催しました。
会場では、上柿元勝シェフによるスープ提供、松陽高校吹奏楽部等によるステージ、松元地域の店舗等による出店を行いました。
令和6年1月21日に松元公民館で、「石谷夢プロジェクト」が主催する講演会が開催されました。かごしま探検の会の東川隆太郎氏が「町田久成の足跡~石谷を中心に~」と題し、松元地域の偉人である町田久成についてお話されました。
令和5年9月16日に「石谷夢プロジェクト」が主催する史跡めぐりが開催されました。戸﨑勝洋氏の説明を受けながら、松元地域の偉人である町田久成のゆかりの地を散策しました。
鹿児島市(旧松元町)の石谷を領していた町田家(新納家(宮崎県木城町)・樺山家(宮崎県三股町)と共に島津氏三大権門の一つ)の長男として1838年に生まれた方です。
文久2(1862)年8月21日に現在の「神奈川県横浜市鶴見区生麦」付近で薩摩藩主の島津茂久の父で藩政の最高指導者・島津久光の大名行列に遭遇し、あたりかまわず無遠慮に動いた騎馬のイギリス人たちを殺傷(1名死亡・2名重症)した事件です。
生麦事件を受けて、イギリスは薩摩藩に対して犯人の処刑と賠償金25,000ポンドの支払いを要求し、薩摩藩がこれを拒否したため、1863年6月27日イギリス艦隊7隻が鹿児島に来航し始まった戦争です。戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への砲撃射撃は必要以上の攻撃であったとして、イギリス議会や国際世論はイギリス艦隊のキューパー提督を非難しています。イギリスは講和交渉を通じて薩摩藩を高く評価するようになり、薩摩藩側も欧米の文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていきました。
薩英戦争を機に、薩摩藩では島津斉彬が生前に発案した海外留学生派遣計画の実行が急務と考え、海外に通じた人材育成の機運が高まり、1865年2月13日に視察員4名と薩摩藩洋学校開成所(薩英戦争後の藩の近代化政策の一環として、洋式軍制拡充の目的で1864年に創設された藩立の洋学養成機関)を中心に留学生15名が選ばれ、留学渡航の藩命が下されました。
薩摩藩英国留学生である19体の銅像からなり、その一番上に飾られている2人のうちの1人が、「町田久成」です。
よりも上に飾られています。
町田久成らは、1865年17名の青少年を率いて串木野の羽島沖から出航しました。長い鎖国の眠りの中にいた留学生たちにとって未知なる海外への旅は、まさに驚嘆の連続でした。香港の夜景・東洋の玄関シンガポール・ボンベイの高層建築・紅海から見た砂漠・ピラミッド・スエズ運河掘削工事・鉄道・信号機・マルタ島に林立する荘厳華麗な教会・ジブラルタル要塞等々の西洋文化や先進技術は留学生たちに攘夷思想の愚かさを悟らせるには充分でした。
1865年5月28日、二か月余の旅を経て英国のサザンプトンに到着した久成は、英国で二年ほど語学を身に付けながら西洋文明や技術を見極めていきました。ロンドン大英博物館やサウスケンジントン博物館の見学では、深い感銘を受けることになりました。
1867年に開催されたパリ万国博覧会では、久成は薩摩藩の使節として参加しており、薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示し、独自の勲章(薩摩琉球国勲章)まで作成するなど、各々が対等の立場を主張して争っています。同年、帰国しましたが、このとき日本国内では古い物を破壊し捨て去ることが、文明開化であるという誤った考え方が流行していました。
1868年に神仏分離令が布告され、廃仏毀釈の流れによって、寺や仏像は破壊され、さらに欧米文化崇拝の風潮で、日本古来の伝統文化財である焼き物・浮世絵・書などが二束三文で海外に流れ出ていく有り様に心を痛めた久成は、私財をはたいて文化財を買い求めたり、文化財修復等の技術者を養成する学校を創設したりしました。
1870年大学大丞になると教育行政と大学南校事務を所掌し、博物館建設に精力的に取り組みます。1871年文部大丞になると「大学南校物産会」開催に漕ぎつけ、天皇・皇后両陛下御覧の機会を得たことがこの後の博物館建設への大きな励みとなりました。この物産会の資料を引き継いで、1872年3月「文部省博物館」の名のもとで、湯島聖堂を会場とした湯島聖堂博覧会を開催します。同年5月、東海・近畿の寺院・神社・城郭等の文化財調査(壬申検査)に携わり、1873年「博物館設置の建白書」を当局に建議しました。
1875年内務大書記官に昇任、同時に初代博物局長(博物館長)に任命されます。1882年3月20日に博物館が上野に移転すると、自分が集めた文化財は全て寄贈しています。同年10月、久成は突然職を辞して、滋賀県法明院という寺で仏門に入ります。
1897年6月、古社寺保存法が制定され、それを見届けるかのごとく1897年9月15日に60歳の生涯をとじました。久成の死後、かれの功績を称えて東京国立博物館の構内に建立された高さ4メートルもの大顕彰碑には、「博物館は君が提議し創設する所なり」との撰文と、久成の心境を偲ぶ漢詩が刻まれています。
2016年11月14日の博物館の日には、東京国立博物館の中庭に久成の胸像が設置・除幕されました。その台座正面の碑銘「初代町田久成館長像」は安倍晋三元内閣総理大臣によるものです。
町田久成がいなければ、多くの文化財が破壊され、貴重な資料が消失していたかもしれません。まさに、明治維新で西洋化が進む日本において、日本古来の文化を守った英雄の一人です。
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