更新日:2022年8月22日
ここから本文です。
令和4年第二次世界大戦戦亡者慰霊祭において捧げられた「慰霊のことば」及び、当日配布されたリーフレットを紹介します。
世界中で多くの尊い人命が失われた第二次世界大戦の終戦から、77年の歳月が過ぎ去りました。未だに新型コロナウイルス感染症の影響が続く中、万全の感染対策のもと、終戦の日に、ここ探勝園において、2年ぶりに第二次世界大戦戦亡者慰霊祭を執り行うにあたり、戦亡者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げます。
先の大戦においては、将来ある若者が、最愛の家族の幸せ、祖国の安寧を願いながら犠牲となり、また、各地における空襲や広島・長崎への原子爆弾の投下、沖縄での地上戦により、多くの無辜の市民の命が奪われ、国土はまさに焦土と化しました。
私どもの郷土、鹿児島市も大戦末期の昭和20年、市街地のおよそ9割が焼失する激しい空襲を受け、多くの市民の皆様がお亡くなりになるという、筆舌につくしがたい悲惨な体験をしました。
こうした想像を絶する状況の中、かけがえのない家族や友人を失った深い悲しみに耐え、幾多の苦難を乗り越えてこられたご遺族や関係の皆様方に、深く敬意を表する次第であります。
戦後、わが国は一貫して平和国家としての歩みを続け、世界に類を見ない経済発展を成し遂げました。本市におきましても、ご遺族をはじめ市民の皆様の弛まぬご努力により、見事に復興を遂げ、今では、市民が健やかに暮らし、多彩で豊かな地域資源に恵まれ、多様な都市機能が集積した中枢中核都市として着実な発展を遂げる中で、「躍動都市・かごしま」の創造に向けた挑戦を続けております。
しかし現在、私たちは、当たり前と思っていた穏やかな日常が決して不変的なものではないことを痛感させられています。
ロシアによるウクライナ侵攻は、子どもや高齢者を含む多くの住民の尊い命を奪い、美しい街並みや自然を破壊しており、住民は突如として恐怖と隣り合わせの生活を余儀なくされています。
報道を通じて連日発信される惨状を目にするたび、心が痛み、そして改めて、恒久平和を実現することの困難さを強く感じているところです。
終戦から4分の3世紀が経過し、私も含め戦後生まれの世代が総人口の8割以上を占める今、戦争という悲惨な歴史の教訓を次の世代に語り継いでいくことがますます重要になってきております。
本市におきましては、私たちの目の前に立つ「第二次世界大戦敵味方戦亡者慰霊碑」の建立以来、70年近くにわたり、この地で慰霊祭を開催し、慰霊碑に込められた、敵味方を問わず世界中の戦亡者を悼むという、他に類をみない博愛精神を語り継いでまいりました。
また、平成2年に行った「平和都市宣言」のもと、戦災・復興資料の収集・保存に努め、市内各地で「鹿児島市の戦災と復興資料・写真展」等を開催しているほか、小中学校で学習教材として活用するなど、平和の尊さや戦争の悲惨さ、さらには、復興への努力を後世に伝える取組を続けております。
私たちは、困難な時代に直面している今こそ、改めて、この慰霊碑に込められた思いを次の世代にしっかりと引き継ぐとともに、世界中の人々が多様性や価値観の違いを認め合い、協調・連携することにより、世界の恒久平和が達成されるよう、不断の努力を続けていくことを、ここに固くお誓い申し上げます。
結びに、戦亡者の御霊のご冥福と、ご遺族をはじめ、本日ご列席の皆様方のご健勝とご多幸、郷土の限りない発展を祈念いたしまして、慰霊のことばといたします。
令和4年8月15日 鹿児島市長 下鶴 隆央
本日ここに、ご遺族並びに関係の皆様ご参列のもと、第二次世界大戦戦亡者慰霊祭が厳かに執り行われるにあたり、鹿児島市議会を代表して、戦亡者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げます。
第二次世界大戦という苛烈を極めた戦いの中で、戦禍の犠牲となり、数多くの尊い命と貴重な財産が失われました。終戦から長い歳月を経た今もなお、先人たちの犠牲の重さは、私たちの心の碑に強く刻み込まれております。
最愛の家族のため、また愛する祖国のために散って行かれた先人たちの命の重さを想うとき、万感胸に迫るものがあります。また同時に、幾多の苦難を乗り越えてこられたご遺族の皆様のご労苦に、深甚なる敬意を表する次第であります。
戦後、我が国は、国家の再建にたゆみない努力を重ね、今日まで世界に誇る目覚ましい発展を遂げるとともに、平和国家としての確かな歩みを進めてきております。
私たちの住む郷土鹿児島市も、ご遺族をはじめ多くの先人たちの懸命なご尽力により、激しい空襲で焦土と化した街から復興を成し遂げ、南九州の中核都市として着実な発展を遂げてまいりました。
終戦を迎えてから77年の時が流れ、我が国における戦争を体験した世代は国民の1割余りとなりました。そのような現状を踏まえた時、現在、私たちが享受している平和と豊かさは、戦渦に倒れた多くの方々の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、改めて強く認識する必要があります。そして、その体験を風化させることのないよう、世代を超えて語り継いでいくとともに、この平和で豊かな愛すべき郷土を、100年、200年先の未来へと確実に引き継いでいかなくてはなりません。
世界情勢に目を向けると、今年の2月24日に始まったロシアによるウクライナへの軍事侵攻は現在も続いており、戦火により、平穏な生活が突如として奪われ、子どもやお年寄りなど民間人を含むたくさんの人々の尊い命が今も失われております。
私ども市議会は、国際法に違反し、国際秩序に深刻な打撃を与える今回のロシアによる軍事侵攻に断固抗議し、令和4年第1回定例会において、「ロシアによるウクライナ侵略に断固抗議する決議」を全会一致で可決したところであります。
本日、終戦の日を迎えるにあたり、私たち一人ひとりが、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて深く心に刻み、郷土鹿児島市や愛する日本の限りない発展はもとより、世界中から争いが無くなることを願い、世界恒久平和の実現に向けて、これからも不断の努力を続けていくことを堅くお誓い申し上げます。
結びに、尊い命を捧げられました御霊の永久の安らぎと、ご遺族並びにご参列の皆様方のご健勝、ご多幸を心からお祈り申し上げまして、慰霊のことばといたします。
令和4年8月15日 鹿児島市議会議長 川越 桂路
令和4年第二次世界大戦戦亡者慰霊祭の開催にあたり、慰霊の言葉を申し上げます。
今から77年前の今日、およそ6年間続いたとされる第二次世界大戦は幕を閉じました。この戦争での日本人犠牲者は310万人。今は平和な日本で、こんなにもたくさんの犠牲者が出てしまったという現実に私はとても驚きました。そして、終戦の2か月前には、この鹿児島市も大空襲を受け、あたり一面、焼け野原となりました。緑豊かで、いつもみんなが笑顔で暮らしている鹿児島市でも、人々が悲鳴をあげながら逃げていたという現実に、つらく悲しい気持ちになります。
以前、私は家族で知覧特攻平和記念館にいったことがあります。その中の展示品を見たり、特攻隊員が残した遺書や手紙を読んだりして、私は強く心をうたれました。国のために命をささげた特攻隊員にも、大切な人がいました。そして、人生の最後には、自分のために時間を使うのではなく、故郷の家族などに向けて手紙を書いたのです。きっと別れたくなかったでしょうし、直接思いを伝えたかったと思います。しかし、その機会は戦争によって奪われてしまったのです。それはあまりにもひどく苦しい現実でした。
私たちは、これまでの時代の中で、平和な時代を生きていると思います。空襲におびえることもなく、空腹に苦しむこともありません。学校に行けば、友達とおしゃべりすることもできます。しかし、この平和な日々は、戦場で亡くなられた多くの方々の犠牲の上で築かれたものです。空襲によって命を奪われた方々にも、国のために命をささげた特攻隊員の方々にも、夢や希望はあったことでしょう。そして、愛する人と過ごす時間も戦争によって失われてしまったのです。
今、平和な時代に生きている私たちだからこそ、戦争があったという歴史から目をそむけてはいけません。戦争で命が奪われた歴史は変えることはできません。
しかし、一人一人が平和を願い、命を大切にし、互いに協力し合って生きていくことで、特攻隊員の方々、戦争で命を失った方々が報われるはずです。
世界では、今も戦争や紛争で失われる命があります。私は、国を超えて、世界中のすべての人々が幸せに暮らせる世界を望んでいます。
戦争で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りし、平和の尊さを忘れずに引き継がれた思いを受け継ぐことをここに誓い、慰霊の言葉といたします。
令和4年8月15日 鹿児島市立名山小学校 6年 上野 凛花
令和4年第二次世界大戦戦亡者慰霊祭の開催にあたり、慰霊のことばを申し上げます。
今日、8月15日は終戦記念日。77年前、罪のないたくさんの人々の命が奪われた第二次世界大戦が、終わりを迎えた日です。
また、決して忘れてはならない戦争の記憶を、改めて思い返し、恒久の平和を祈念する日でもあります。
この国には、終戦から77年の時が流れた今もなお、心に癒えない傷を負った方々がご存命でいらっしゃいます。
しかし、その一方で、戦争を経験していない人々は日本人口の約75パーセントを超えるといわれています。
私たち長田中学校では、1年次から2年間をかけ、総合の時間を通して平和学習を行っています。
各グループで平和について調べたことを新聞にまとめたり、2年生の文化祭では、鹿児島大空襲にちなんだ劇をしたりしました。
修学旅行では、全員で折った千羽鶴を持って長崎を訪れ、鶴を奉納しました。
また、長崎で被爆した方の講話をお聴きし、平和について深く考えさせられる機会をいただきました。実際に聞いた話はあまりにむごく、言葉では言い表せないほど胸が苦しくなったのを覚えています。
私の父方の祖父は、今年で83歳になります。祖父はお盆になると、毎年のように自らの戦争体験を話してくれます。
第二次世界大戦は鹿児島にも大きな被害を及ぼしたそうです。昭和20年6月17日、鹿児島大空襲がこの街を襲いました。
祖父のお母さん、つまり私の曾祖母は、この空襲で亡くなったそうです。皆が空襲から逃げようとする中、曾祖母は「私はここに残る」と言って家に残り、そして命を落としたそうです。
次々に落とされる焼夷弾。燃え上がる炎の中に、人々の泣き叫ぶ声。激しい熱風に、耳をつんざくような轟音。曾祖母をはじめ、あの日を生きていた人々は、どんなに辛く、怖い思いをしたことでしょう。
また、鹿児島県内には4つの特攻基地があり、そこから多くの若者が飛び立ちました。片道分の燃料を積んで飛び立ち、敵艦に体当たりした特攻隊の方々は、生きて帰って来ることはありませんでした。
死を覚悟して飛び立った彼らの遺書を拝見しましたが、どの文書を見ても、家族や愛する人への感謝が綴られており、恐怖や不安の言葉はほとんどありませんでした。国のために、自らの命が絶たれる瞬間、彼らが考えていたのはどんなことだったのでしょうか。そんなことを考えるたび、激しい悔しさがこみ上げてきます。
今、日本は戦争に関わることなく、77年前よりも豊かな生活を送っていると言えるでしょう。青い空の下で友人と笑い合い、共に学びながら幸せな日々を送ることができています。
しかし、もっと広い範囲に目を向けるとどうでしょうか。ロシアのウクライナ侵攻をはじめとする絶え間ない紛争により、怖い思いをしながら毎日を生きている人々が世界にたくさんいます。
日本だけではなく、世界中の人々が、毎日笑って、夢を持って生きることができるように、そして、そんな平和を守り続けることができるように、平和のバトンを受け継ぐ私たちが、過去のことをたくさん学び、次世代につなげていかなければなりません。
長い歴史の中、これまでに戦争で多くの人々が亡くなり、そして、多くの人々がその別れを悲しみました。それは、確かにとても悲しいこと、辛いことです。
しかし、それ以上に、私たちが、こんなに悲惨な戦争があったという事実を忘れてしまうことは、戦争で亡くなった方々にとって、何よりも残念なことではないでしょうか。
また、私たちは、日本だけでなく世界の平和を望んでいます。
何千キロ、何万キロも離れた国のことを、私が変えることなどできないということは、よく分かっています。
でも、どんなに小さな国だって、どれだけ大きな国だって、共に平和であるべきだと思います。
世界中のすべての人々が笑って過ごせるような世界を、私たちの手で作ることができると私は信じています。
私たち日本では、1945年に終戦し、それから早77年が経ちました。
当時と比べて、現代はとても幸せで夢のような世界ではありますが、世界中の人々がもっと幸せに暮らせる社会を作るということを、私は決して諦めません。それが、辛く悲しい戦争の時代を生き抜いてこられた方々から、平和のバトンを受け継ぐ私たちの使命だからです。
戦争で犠牲になった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
また、戦争という事実が忘れ去られることがないように、後世に語り継ぐとともに、平和な未来を築き上げることをここに誓い、慰霊のことばと致します。
令和4年8月15日 鹿児島市立長田中学校 3年 德田 杏
慰霊祭当日に参列者に配布予定であったリーフレットを掲載します。
リーフレットでは、本慰霊祭や慰霊碑の謂れ、児童生徒の平和へのメッセージ等が紹介しています。
よくある質問
PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe Acrobat Readerが必要です。Adobe Acrobat Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先から無料ダウンロードしてください。
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください