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更新日:2021年8月27日
令和3年第二次世界大戦戦亡者慰霊祭につきましては、本市における新型コロナウイルス感染症の感染状況並びに県内の感染拡大の警戒基準がステージⅣに引き上げられ、県独自の緊急事態宣言が発令されたことを踏まえ、中止となりました。
ここでは、本慰霊祭の概要を紹介いたします。
また、令和3年に捧げられる予定であった「慰霊のことば」(市長、議長、児童生徒)や配付予定であったリーフレット(慰霊碑の謂れや児童生徒の平和へのメッセージを掲載)は、第二次世界大戦戦亡者慰霊祭「慰霊のことば」・リーフレットのページでご覧いただけますとともに、本市戦没者追悼式(10月開催予定)や平和関係の行事等で紹介いたします。
本市では、「第二次世界大戦敵味方戦亡者慰霊碑」建立以来、8月15日にご遺族をはじめ多くの関係の方々に参列いただき、「第二次世界大戦戦亡者慰霊祭」を開催しています。
式典では、慰霊のことばや献花を捧げ、再び戦争の惨禍を繰り返さないことを誓うとともに、敵味方の区別なく戦亡者を慰霊しています。
令和2年は「戦後75年」、「本市平和都市宣言30周年」という大きな節目を迎えました。新型コロナウイルス感染症の影響により、規模を縮小しての開催となりましたが、式典に参列できなかった市民の皆様の思いも合わせ、世界の恒久平和の達成を願いました。
なお、同慰霊祭で捧げられた慰霊のことば(令和2年はページ下部のリンクより確認できます)及び令和2年の開催の様子(パネル展や献花等)の動画(外部サイトへリンク)はリンク先でご覧いただけます。
令和2年8月15日(土曜日)10時~10時30分、探勝園(城山公園内、照国神社隣)
合唱放送
冒頭、鹿児島女子高等学校音楽部による「いのちの歌」(録音)が放送されました。
放送した「いのちの歌」(外部サイトへリンク)はリンク先で聴くことができます。
多くの戦亡者の安らかなご冥福をお祈りして、黙祷を捧げました。
鹿児島市長 森 博幸
鹿児島市議会議長 川越 桂路
児童代表 名山小学校6年 多田 桃子(ただ ももこ)
生徒代表 甲東中学校2年 大保 詩織(おおぼ しおり)
市長、市議会議長、児童代表、生徒代表により慰霊のことばが捧げられました。
それぞれの立場から悲惨な戦争の記憶や平和の尊さを次世代へと引き継ぐことや、世界平和に向けた努力を継続していく決意が述べられました。
捧げられた慰霊のことば(令和2年はページ下部のリンクより確認できます)はリンク先でご覧いただけます。
令和2年の開催の様子(パネル展や献花等)の動画(外部サイトへリンク)はリンク先でご覧いただけます。
鹿児島市長 森 博幸
遺族代表 吉見 文一
山下小学校6年 階元 琉翠(かいもと りゅうすい)
鹿児島玉龍中学校3年 長元 颯真(ながもと そうま)
鹿児島市議会議長 川越 桂路
鹿児島県知事代理 くらし保健福祉部次長 清藤 修
名山小学校6年 多田 桃子(ただ ももこ)
長田中学校3年 進藤 心美(しんどう ここみ)
鹿児島市議会総務環境委員長 佐藤 高広
鹿児島市議会総務環境副委員長 園山 えり
甲東中学校2年 大保 詩織(おおぼ しおり)
鹿児島女子高等学校3年 伊藤 李紗(いとう りさ)
代表献花に引き続き、参列者全員が献花を行いました。
戦後75年、平和都市宣言30周年を記念し、本市の戦災・復興の様子や慰霊碑の謂れ等を紹介するパネルを展示しました。
令和2年の開催の様子(パネル展や献花等)の動画(外部サイトへリンク)はリンク先でご覧いただけます。
慰霊碑は昭和28年12月、第二次世界大戦で亡くなられた世界中の方々を悼むとともに、二度とこのような惨事が起こらないことを祈念するため、第14代鹿児島市長 勝目 清氏により建立されました。
当時は中央公園に建てられましたが、その後、地下駐車場建設に伴い、現在の城山公園内探勝園に移設されました。
第二次世界大戦では、世界中で二千数百万人の生命が失われたようであります。
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慰霊碑の手本である「高麗陣敵味方戦死者供養碑」は、高野山の島津家墓所の一角に建立され、和歌山県指定文化財となっています。
供養碑は高さ385cm、幅81.8cmの位牌形で、碑の中心に敵味方の兵士を供養する旨、その右側に敵、左側に味方の被害が刻まれています。これらは武士道の博愛精神の発露としても知られています。
また、明治41年、島津家子孫の忠重により、英訳した碑文を刻んだ碑も建てられています。
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