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更新日:2023年8月29日

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第二次世界大戦戦亡者慰霊祭「慰霊のことば」・リーフレット

令和5年第二次世界大戦戦亡者慰霊祭において捧げられた「慰霊のことば」及び、当日配布されたリーフレットを紹介します。

第二次世界大戦戦亡者慰霊祭の概要(令和5年の開催の様子)

市長慰霊のことば

 

市長慰霊のことば

 

しい暑さが続く中、今年も終戦の日を迎え、ご遺族をはじめ、多くの皆様ご参列のもと、第二次世界大戦戦亡者慰霊祭を執り行うにあたり、戦亡者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げます。

界中で数千万人にも及ぶ尊い人命が失われた第二次世界大戦の終戦から、78年の歳月が過ぎ去りました。
の大戦では、将来ある若者が、最愛の家族の幸せ、祖国の安寧を願いながら犠牲となり、また、各地における空襲や広島・長崎への原子爆弾の投下などにより、多くの無辜の市民の命が奪われ、国土はまさに焦土と化しました。
どもの郷土・鹿児島市も、大戦末期の昭和20年、市街地のおよそ9割が焼失する激しい空襲を受け、多くの市民がお亡くなりになるという筆舌につくしがたい悲惨な体験をしました。
こうした想像を絶する状況の中、かけがえのない家族や友人を失った深い悲しみに耐え、幾多の苦難を乗り越えてこられたご遺族や関係の皆様方に、深く敬意を表する次第であります。

後、わが国は一貫して平和国家としての歩みを続け、目覚ましい経済発展を成し遂げました。本市におきましても、ご遺族をはじめ市民の皆様の弛まぬご努力により、見事に復興を果たし、世界に誇りうる歴史や文化を礎に、多様な都市機能が集積し、活力を創出する中枢中核都市として、着実な発展を続けています。
たちが今、享受する平和や豊かさは、戦亡者の方々の尊い犠牲の上に築かれたものであることを決して忘れてはなりません。

方、国際社会に目を向けますと、ロシアによるウクライナ侵攻から1年6か月が経過しようとしておりますが、現在もなお、数多くの尊い命が犠牲となっています。
た、北朝鮮は弾道ミサイル発射等の挑発行動を続けており、こうした状況を見聞きするたび、恒久平和を実現することの困難さを強く感じるとともに、世界中に一日も早く平穏な日々が訪れることを念願してやみません。

、私たちの目の前に立つ「第二次世界大戦敵味方戦亡者慰霊碑」は、大戦で亡くなられた世界中の方々を悼むとともに、二度とこのような惨事が起こらないことを祈念し、昭和28年に建立されました。
来、本市におきましては、この地で慰霊祭を開催し、慰霊碑に込められた、敵味方を問わず世界中の戦亡者を悼むという、他に類をみない博愛精神を語り継いでいます。

た、平成2年に行った「平和都市宣言」のもと、戦災・復興資料の収集・保存に努め、市内各地で「戦災と復興資料・写真展」を開催するとともに、小中学校で学習教材として活用するなど、平和の尊さや戦争の悲惨さ、さらには、復興への努力を後世に伝える取組を続けております。

戦から4分の3世紀以上が経過し、戦後生まれの世代が総人口の8割以上を占める今、戦争という悲惨な歴史の教訓を次の世代に語り継いでいくことがますます重要になってきております。
たちは、改めて、この慰霊碑に込められた思いを次の世代にしっかりと引き継ぐとともに、世界中の人々が多様性や価値観の違いを認め合い、手を携えていくことにより、世界の恒久平和が達成されるよう、不断の努力を続けていくことを、ここに固くお誓い申し上げます。

びに、戦亡者の御霊のご冥福と、ご遺族をはじめ、本日ご列席の皆様方のご健勝とご多幸、郷土の限りない発展を祈念して、慰霊のことばといたします。

令和5年8月15日 鹿児島市長 下鶴 隆央

議長慰霊のことば

 

議長慰霊のことば

 

日ここに、ご遺族並びに関係の皆様多数ご参列のもと、第二次世界大戦戦亡者慰霊祭が厳かに執り行われるにあたり、鹿児島市議会を代表して、戦亡者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げます。

二次世界大戦という苛烈を極めた戦いの中で、戦禍の犠牲となり、数多くの尊い命と貴重な財産が失われました。先人たちの犠牲の重さは、終戦から長い歳月を経た今もなお、私たちの心の碑に深く刻み込まれております。

する祖国の安寧と発展を願い、最愛の家族を想いながら散って行かれた先人たちの命の重さを想うとき、万感胸に迫るものがあります。また同時に、かけがえのないご家族を失われ、幾多の苦難を乗り越えてこられたご遺族の皆様のご労苦に、深甚なる敬意を表する次第であります。

後、我が国は、国家の再建にたゆみない努力を重ね、今日まで世界に誇る目覚ましい発展を遂げるとともに、平和国家としての確かな歩みを進めてまいりました。
たちの住む郷土鹿児島市も、ご遺族をはじめ多くの先人たちの懸命なご尽力により、激しい空襲で焦土と化した街から復興を成し遂げ、南九州の中核都市として着実な発展を遂げてまいりました。

戦を迎えてから78年の時が流れ、我が国における戦争を体験した世代は国民の1割程度となるなか、悲惨な戦争体験は、年々薄れてきており、記憶の風化が危惧されております。
界では、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が、1年以上経過した現在も続くなど、今もなお、各地で紛争が続いております。

のような状況のなか、現在我が国では戦争を現実のものとして感じられる国民が少なくなっており、私たちが享受している平和と繁栄は、戦渦に倒れた多くの方々の尊い犠牲と苦難の上に築かれたものであることを、今、改めて強く認識する必要があります。
して、あの壮絶な大戦を単に歴史的事実としての理解に留めるのではなく、二度と繰り返すべきではないということを、世代を超えて語り継いでいくとともに、この平和で豊かな愛すべき郷土を、100年、200年先の未来へと確実に引き継いでいくことが、現代を生きる私たちに課せられた責務であると考えます。

日、終戦の日を迎えるにあたり、私たち一人ひとりが、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて深く心に刻み、愛する日本の安寧や、郷土鹿児島市の更なる発展はもとより、世界中から争いが無くなることを願い、世界恒久平和の実現に向け、これからも不断の努力を続けていくことを堅くお誓い申し上げます。

びに、尊い命を捧げられました御霊の永久の安らぎと、ご遺族並びにご参列の皆様方のご健勝、ご多幸を心からお祈り申し上げまして、慰霊のことばといたします。

令和5年8月15日 鹿児島市議会議長 川越 桂路

児童代表慰霊のことば

 

児童代表慰霊のことば

 

二次世界大戦で亡くなられた戦没者の方に、慰霊の言葉を捧げます。

没者の皆さん、皆さんは、どのような思いで戦地に向かわれたのでしょうか。
戦争とは、どういうものなのでしょうか。
和の日本はとても平和で、誤解を恐れずに正直に言えば、「戦争」と言っても、いまいち実感が沸きません。

は家族と、毎年のように知覧にある「知覧特攻平和会館」を訪れます。まだ幼かったころは分からないことが多かったのですが、戦争の怖さを知り始めた、小学校4年生のとき、私は大きな衝撃を受けました。平和会館には特攻隊員として出撃した方の手紙が展示しております。その中に今でも忘れることのできない手紙が二つあります。一つは、まだ小さい我が子が、読みやすいようにと漢字を使わず、カタカナで書かれた手紙。もう一つは、親に心配させないために「笑って征きます、泣かないでください」と記した手紙。私は、そんな隊員の気持ちを想像したとき、思わず涙が出てしまいました。

争で亡くなられたのは、隊員の方ばかりではありません。私より小さい子供でさえも、戦争で亡くなっています。今の私に、皆さんの気持ちを十分に想像することはできません。それでも、家族と死に別れる辛さ、死ぬ恐怖、痛み、苦しさなどを想像すると、胸が締め付けられるような気持ちになります。本当に本当に苦しい地獄のような経験をされたのでしょう。

はまだ十分に戦争を分かっていません。それでも、少しずつですが、戦争について理解し始めています。戦争は、想像を絶するほど悲惨なものであること、たくさんの可哀そうな人を作り出すこと、それなのに未だに世界では戦争がなくなっていないこと、そして戦争は必ず人間が起こすものであるということ、です。

うすれば私に、皆さんの心を慰めることができるでしょうか。いくら考えても、なかなか答えが見つかりません。私には到底「慰霊」など、できないことのように思えます。でも、「もし私が亡くなった皆さんなら・・・」と考えたとき、家族や日本の未来のために命を懸けてくれたことを感謝されたい。そして、戦争で自分と同じ辛い思いを二度としないで欲しいという気持ちになりました。

はあまりにも非力です。世界で起きている戦争を止めることも、戦争で困っている人を助けることも、私にはできません。しかし、皆さんが経験された戦争をもっと知り、皆さんの苦しさをもっと理解し、それを家族や友達と話し合うことで、二度と戦争をしないという気持ちを育むことはできます。そして、将来、自分が親となったときには、その気持ちを子供に伝えていくこともできます。
は、この考えを胸に、平和な「今」を守り続けていくことを誓います。

没者の皆さん、私の気持ちが少しでも皆さんの心の癒しとなればと祈り、慰霊の言葉とさせていただきます。

令和5年8月15日 鹿児島市立山下小学校 6年 内藤 蓮温

生徒代表慰霊のことば

 

生徒代表慰霊のことば

 

和5年第二次世界大戦戦亡者慰霊祭の開催にあたり、慰霊のことばを申し上げます。

音放送とともに迎えた終戦の日から、78年が過ぎ去りました。
年も連日暑い日が続いていますが、78年前の今日も暑い日だったのでしょうか。

8回にも及ぶ爆撃によって、豊かな自然に恵まれたここ鹿児島が焦土と化し、想像も出来ないほど悲惨な光景に変わってしまったこと。「死にたくない」「生きたい」という思いを胸に、必死に生き延びようとした戦禍の人々。そして、家族や恋人に別れを告げ、死を覚悟して戦地へと向かっていった若き兵士たち。今の私たちは、どれも目にしたことも、経験したこともありません。

戦から80年近くの歳月が経ち、戦争を直接体験された方々は少なくなり、日本が戦争をしていたことについて、よく知らない人が増えています。私たち若い世代が戦争に対して関心が薄れてきているのは事実だと思いますが、私たちが過去の悲惨な戦争について学習し、正しい知識を身に付け、未来へと受け継がなければならない使命を持っていることも事実です。
校で楽しく過ごし、おいしいご飯を食べ、お風呂に入り、ぐっすりと眠る。この当たり前の日常も、先人の尊い犠牲の上に成り立っているということを、今日こそ思い出し、感謝しなければいけないでしょう。

二次世界大戦により戦死された軍人・軍属は、日本全体で約230万人、空襲などで亡くなられた一般市民が約80万人、合計で約310万人もの尊い命が失われました。鹿児島ではたくさんの飛行場から、私たちと年齢がさほど変わらない若い人たちが、特攻隊員として戦地へ多く飛び立っていきました。

たちの学校では、1年の校外学習として知覧の特攻平和会館を見学する機会がありました。館内に展示された多くの手紙や遺書を読み、亡くなられた方々、残された家族の方々を思い、悲しさで胸が痛くなりました。一方、若い兵士一人一人の純真無垢な気持ちを爆弾に託す特攻戦法しか手段はなかったのかと、その状況に対して、やり場のない強い憤りも感じました。
2年の修学旅行では、長崎の原爆資料館を訪れました。ここでは、自らの被爆体験を若い世代に語り継ぐ語り部の方から直接お話を伺う貴重な機会にも恵まれました。伺ったお話の内容もさることながら、語り継ぐことの大切さを実感できる大変有意義な経験をさせてもらいました。

て、若い私たちがこれから避けて通れないもの、それはソーシャルメディアです。2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻の情報も、侵攻前からソーシャルメディアで全世界に広がったそうです。ウクライナ侵攻はスマホ時代に起きた、初めての戦争となってしまいましたが、中学生の私たちも、この戦争が遠い世界の出来事ではないことを理解しています。これから私たちは、世界情勢にも目を向け、溢れかえる情報を見極める力を身に付けることが大切になってくることでしょう。

後に、戦争により亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りするとともに、戦争の歴史を忘れず、平和な未来を創っていくことをここに誓い、慰霊の言葉といたします。

令和5年8月15日 鹿児島市立甲東中学校 3年 井上 心乃

過去の慰霊のことば

令和4年慰霊のことば(PDF:235KB)

令和3年慰霊のことば(PDF:219KB)

令和2年慰霊のことば(PDF:245KB)

令和元年慰霊のことば(PDF:222KB)

平成30年慰霊のことば(PDF:214KB)

リーフレット

慰霊祭当日に参列者に配布したリーフレットを掲載します。

リーフレットでは、本慰霊祭や慰霊碑の謂れ、児童生徒の平和へのメッセージ等を紹介しています。

PDF版リーフレット(PDF:1,333KB)

リーフレット1ページ目リーフレット2ページ目

リーフレット3ページ目リーフレット4ページ目

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