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更新日:2023年2月1日
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1956年生まれ。鹿児島市出身。1977年シンガーソングライターとしてデビューすると、数々のヒット曲を生み出すとともに俳優としても活躍。昨年12月、鹿児島市の医療機関の地域貢献に感銘を受け、鹿児島貢献の第一弾として医療従事者や患者に向けた大型壁画を制作するなどますます精力的に活動されている長渕 剛 さんにインタビューしました。
当時の鹿児島は、生き物の匂いにあふれていて、自然は豊かで、野山を駆け回ってとんぼや蝶々を追いかけていましたね。子どもは至る所にいて、追っかけられたり、追いかけまわされたりと、汗をかいて遊ぶんです。そのような遊びの中で学んでいくことがいっぱいありましたね。
また、僕が育った地域では、様々な境遇の方がいましたが、みんな一つのフィールドで仲良く生きていたんです。例えば、「お前、今日母ちゃんいないなら、うちにご飯食べにこんね」とか。それぞれが助け合って地域社会が成り立っていたんですね。そういう体験が自分にとっての「原体験」であり、原点になっていると思います。
高校時代はフォークソングの全盛期でした。僕は、関西フォークを中心に日本のフォークソングから入っていきましたね。同時に、僕らのお兄ちゃん世代の方々が社会のために戦う姿を目にする時代でもありました。自分にはそういう力はないんだけど、このことがいつしか歌というものとリンクしていき、フォークソングと“社会”というものを一つのテーマにして歌って戦う方法があるんだということをこの時代のお兄ちゃんたちに学びました。
怖かったです。恐怖しかなかった。表現者のはしくれだから、怖さも絶望感もとにかく歌にしよう、詩にしようということばかり考えていたので、その期間は、ほとんどスタジオにいました。正直、コロナが始まったころは医療従事者のみなさんは命がけだなと無責任に思っているだけだったんですね。
でも、あるとき、医療従事者の方々に医療の現状をお聞きする機会があり、苦しみや非常に切迫されている状況にとても心を打たれました。
そして、医療従事者の方々を想いながら書いたのが「しゃくなげ色の空」という歌。歌ができてからは、その歌を医療従事者の方へ届けよう、届けようというその想いで一生懸命になっていて、いつの間にか恐怖はどこかへ飛んでいましたね。
今回は、地域で頑張る鹿児島の医療機関の貢献に感銘を受け、一緒に希望に向かいましょう!という合言葉のもとに、2輪のひまわりと“僕は君のためにずっとずっと咲くよ”という詩を入れた詩画を全身全霊で描かせてもらいました。
もともと、詩画を描くときは、自分の心の中から出てくる感情を詩画の中に瞬時に付着させていくんです。それは、自分が今生きている瞬間を付着させていくという強い意志があるように思います。それが僕の詩画のスタイルですね。
“ひまわり”は今回依頼を受けた米盛病院の院長からのリクエストでした。
ひまわりは灼熱の太陽のもとにせり出して咲いている。やはりその伸びやかな生命力に感動させられるので、僕自身もひまわりが大好きです。
今回の大型壁画では、線を描いてヒマワリの赤色を塗っているときに、今回伝えたい詩のイメージはできていましたし、3日間の作業でしたが、あっという間に描き終わったという印象です。感じ方は人それぞれだと思いますが、患者さんたちが元気になればいいなという思いはあります。
どうしてもやっぱり自分が育った幼稚園、小中学校、高校というところはどうしても愛着がありますね。僕は鹿児島に帰ってくるとふらっと自分が育った場所を今も訪れたりしています。
また、僕は、日本全国色んな所を回っていますが、「あら、帰って来やったとなぁ」って声をかけてくれる人は唯一、鹿児島の人だけ。それが何ともいいですね。
鹿児島は温泉が豊富、東京から来た人はこの値段で温泉に入れるなんてびっくりしますよ。しかもかけ流しだから、日本には色々温泉はあるけど、こういう場所はない。泉質もいろいろ揃ってるしね。
誰のために生きるのかということは自分の生涯のテーマなのですが、最近思うのは、誰のために、何のために死ぬのかということをよく考えます。
そうしたときに、最後はここ鹿児島か、という思いがひしひしとあります。力を込めてそう思うわけではなく、最後はここだなという思いはすごくあります。
18年くらい前に、桜島でオールナイトライブをやりました。このときは命がけでやったのですが、実現に2、3年の月日がかかり、みんなで苦労しながら実現したのを覚えています。そのとき、地元の人やひと役買った同志たちの協力もあって、自分一人では何もなせることはないという事を知りました。あの時のように、もう一回情熱をもって、仲間たちと最後は走り切るか!という風にも思っているところです。
ここから先は、たぶん鹿児島に帰ってくる機会が増えると思います。それぞれのスペシャリストのみなさんが鹿児島にはたくさんいらっしゃると思うんでね、そういう方たちと共に何かを、人が喜んでくれることを探し当てて、何か面白いことをやりたいんだよね。
やっぱり敬愛すべき、自分の愛する大嫌いなほどに大好きな鹿児島を、僕自身が放したくないんです。これから生まれてくる子ども達、一生懸命明日を夢見ている子ども達、鹿児島には夢や希望がたくさんあるんだという思いを作りたいんですね。
それは僕たち大人たちが一生懸命になって創っていくものだと思っています。
子どもは大人たちの背中を見て明日を夢見ます。
目の前の大人たちの楽しそうで、苦しそうで、そして汗を流して生きている姿を、そんな大人の背中を見せて、たくさんの子ども達と一緒に鹿児島に夢を作っていきたいなと思っています。
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